IAMASは最先端技術を学ぶ学校ではありません!
2018/2/22~2/24に行われるIAMAS2018で《混合する光》という作品を脇役ながら出展しております。
ゴーグルを用いて、左右の目、異なる映像を覗くというものです。
そこでひっそりと作品ついてのテキストを配っているのですが、何となくこちらにも載せてみよっかな〜と思い立ちました。(先輩方、1年のくせにでしゃばってスミマセン。。。)
それに加え、IAMAS2018のテーマ「つまずく小石をひろうこと」や現在のIAMASについて僕が思うことをチョロっと書きました。
はじめに
まずは興味を持っていただき、心より感謝いたします。IAMAS2018では個人の展示としてではなく〈IAMAS HDⅡ 高精細映像技術を用いた表現研究プロジェクト〉内の活動報告として発表しているため、キャプション(作品紹介文)の内容はプロジェクトの研究に寄り添った文面となっております。しかし、やはり作者の気持ちとしては率直な想いを隠しきれず、このように改めてテキスト化することにいたしました。
発展と幸福
個人的には高精細映像に惹かれるどころか恐怖すら感じています。僕らが生きるこの現実世界をできる限り忠実に再現しようとする試みからは人間の底知れない欲が伺えます。何のためにそこまで求めるのでしょうか。果たして終わりはあるのでしょうか。急激な発展の最中、最先端と呼ばれるものはあっという間に過去のものとなり、そのめまぐるしい循環に僕はこの先ついていけないような気がするのです。
今でさえ映像メディアは人々に多大な影響を与え、思考や人格を変えてしまう程だというのに。。。
しかしまぁ、悲観的なことばかり考えていても仕方ありませんね。逆に被写体の質感が鮮明になることで、僕らが普段見てはいても見たことに気がつかなかった存在がより一層浮き彫りになるのではないかという期待もあります。
大切なのは使い方で、これは実写映像に限った話ではなく、テクノロジーにおいても、もっと言えば僕ら人間の文明においても言えることだと思います。誰にとっての価値なのか。何を得て何を失うのか。その行動の果てに何があるのか。人として生きる幸福を見失わないように、常に考え続けなければいけないな〜ってよく自分に言い聞かせています。
存在と意味
例えば、好きな役者が演じるキャラクターに好意を抱き、現実にもそのような理想的な異性を求め重ねてしまうような、そんな経験はありませんか。実写映像によって、さらには映像の高精細化が進むことによって、ドラマや物語が生み出す幻想のリアリティーは格段に強度を増していきます。フィクションだと分かっていても、僕のように幻影に踊らされ現実を歪めて見てしまう人も少なからずいるでしょう。
かつてそこにあったという確かな”存在”の力は強大で、人間の精神フィルター(経験、思考、意識など)を通って生まれる曖昧な”意味”をも確かなものだと思い込んでしまう。そして虚構と実態にギャップが生じるのです。”存在”と”意味”は繋がっているようで、実は重なっているだけなんだと思います。
今後テクノロジーが今以上に発展し、現実との栄目がより曖昧になったとしても、地に足をつけ、埃っぽい現実に、泥臭く生きているということを忘れたくありませんね。
いやしかし、何十年、何百年後には、人間の生きる意味すら変わっているかも知れません。。。
僕とカメラ
僕らは肉眼で何かを見るとき自分に必要なものだけを選び抜き、多くの情報を切り捨ててしまいます。例えば人混みの中、大切な人の表情を見るとき、その他大勢の人々のホクロの位置まで同じように意識が向くでしょうか。
対してカメラの眼差しは冷徹な無機質さをもって全て同じ”光”として平等に捉えてしまうという特性を持っています。それはカメラが”存在”に”意味”を付随させないからであり、その眼に映る光に優劣をつけないという点では僕ら人間よりもはるかに純粋な形で現実を受け入れていると言えます。僕はそこに憧れ?希望?なんかよくわからない愛を感じました。
では僕らはそのように世界を見れないのか。いや、僕らも生まれたばかりの赤ん坊の頃にはそうだったはずです。大人になるにつれ、人間が作り上げた”意味”を学び、”意味”あるいは”記号”に価値を置き求めるようになったのです。
いつの日かもう一度、生まれたばかりの赤ん坊の頃ように、光をただ光として受け入れることはできるのでしょうか。僕の実写やメディア・アートに対する姿勢は、現実を愛そうとする想いの上にあるのです。
とまぁなんやかんやと述べておりますが、この文が今作品の正解というわけではありません。実際に作品を見て「あれ、感じたことと違うな」と思ったらむしろお話を伺いたいです!ここに書いてあることは所詮”文字”という不確かな記号でしかないですからね、、、。
さいごに、作品とは少し離れますが声を大にして言いたいことがあります。すばり、大多数が言う「当たり前」や「常識」に疑いの目を向けるべきだということです。
混迷を極める社会にとっての「当たり前」は、その中に生きる一人ひとりの幸福に繋がっているでしょうか。残酷な競争で成り立っている消費社会は、果たして僕らの幸福を阻害していないと言えるでしょうか。
情報技術がこれほどまでに普及した現代、発展に伴うテクノロジーのあり方と真摯に向き合うということは、僕ら人間のこれからについて考えることに必ず繋がるはずです。先輩達が掲げたIAMAS2018のテーマ「つまずく小石をひろうこと」を僕はこのように解釈しております。
そして最先端などという上っ面な言葉をしばしば目にしますが、今のIAMASは最先端技術を学ぶ学校ではありません(個人的にかもしれないけども)!
三輪眞弘学長の言葉をお借りするとしたら「倫理をないがしろにした技術革新が、未来の子供達から多くを奪い取り、僕らの心を荒廃させている今_競争に勝ち残るための断片的な専門知識や技能ではなく、それらの真の価値を深く洞察し、よりよい未来を創るために_今、孤独な自分に一体何ができるのかを見定める」場です。
それこそが「IAMASスピリット」の真髄だと僕は想っております。